月華の銀橋:勘定奉行荻原重秀と儒者新井白石の物語

江戸は元禄。華やかなる元禄文化が起こった時代は、徳川家康が開いた江戸幕府の財政破綻の時期でした。

この時代、暗君とされている将軍【徳川綱吉】。しかし、彼は大きな改革を成し遂げた改革者かつ名君の側面も大きいことをご存知でしょうか。

  • 戦国の気風あふれる世の中を改革し、生命の大切さを植えつけた
  • 幕府財政を改革し貨幣流通量を増加。好景気を生じた
  • 側用人制度で将軍親政を開始
  • 身分制度を打破し、小身者を出世させた

高任和夫氏は、この綱吉時代に、大きく腕を振るった勘定奉行「荻原重秀」を儒者「新井白石」と対比させて描いています。実は、綱吉及び荻原重秀を貶めた人物こそが新井白石でした。お金の本質


月華の銀橋:勘定奉行とご用儒者

経済・お金に興味がある方はぜひ一度お読みください。現代にも通じる物語。

当時の幕府は、家康が貯めに貯めたお金を使い果たし困窮を極め金蔵が空っぽに。そこに登場してくるのが勘定奉行に出世した荻原重秀。

柳沢吉保に貨幣改鋳を進言します。

御蔵入高並御物成元払積書によれば、幕府財政は大赤字。

  • 収入:117万両ー支出:127万両=差引10万両の赤字
  • 支出の内、最も多いのは幕臣の俸禄で47万両と支出の37%

そこで、金銀含有量の多い金銀貨幣を改鋳して、幕府の大きな利益をもたらすことを検討。

慶長の頃に比較して商いの量が増えており、世間で流通しているお金の量が足りない。しかし、鉱山からの金銀産出量は減っているため、流通量を増やす事ができない。

その解決策として貨幣改鋳を行ったわけです。

その時の情景を高任氏は会話として生き生きと描き、貨幣は紙切れでも何でも良いと本質を解き明かします。

紙幣が当たり前

今は紙幣が当たり前ですが、当時は金銀小判こそがお金という常識。

重秀:「世間が欲するだけの貨幣を発行するは、これ為政者の責務。天下のため」

吉保:「良き貨幣を出すのも為政者の責務」

重秀:「貨幣は国家が造るもの、たとえ瓦礫であっても行うべきではござりませぬか」「紙であろうと瓦礫であろうと、国家がこれは貨幣としての価値があると裏打ちすれば貨幣となるのでござりまする」

元禄の改鋳についての詳細:評価については別れるところ。

元禄8年(1695年)8月、江戸時代最初の改鋳である「元禄の改鋳」実施、勘定吟味役の荻原重秀の主導で慶長金銀(慶長小判・慶長一分判・慶長丁銀・慶長豆板銀)より質を落とした元禄小判や元禄丁銀いわゆる「元禄金銀」を発行。wiki

儒学を収めた新井白石の考え方

儒教はもともと、商売を蔑む考え方。生産せずにモノを左から右に動かすだけでお金儲けをするとはけしからぬということが基本。だから、江戸時代の身分制度は士農工商と商人が一番下。

そんな儒学者「新井白石」にとり、荻原重秀は許すことのできない大悪人。神君家康の定めた法を次々に破り、商人の手先となって貨幣改鋳や田畑所有権を変更。

さらには、天地の骨として特別な存在である「金銀」の量を減らすなど言語道断という意見。金銀を薄めて流通させると天罰が下り、徳川幕府は滅ぶと本気で信じていた模様。そのため綱吉亡き後、後継者の家宣に対して、白石は、再三、荻原重秀の罷免を迫ります。改貨議や折りたく柴の記など残した書物でもケチョンケチョンにけなしています。

ただし、現代の我々の目から見れば、新井白石と荻原重秀のどちらが正しかったかは周知の通り。

幕藩体制で、幕府・藩双方とも困ったのが大量にいる武士=国家・地方公務員という存在。今の公務員と違い元軍人達ですから、戦が終われば用なし。一応、官僚化することである程度は養えたものの、限界があります。しかし、月華の銀橋の中でも再三語られますが、武士の首を切ることだけはできません。

あまり書き過ぎても興を削ぐので、この辺で、最後に、淀川治水や北回り航路を開発した江戸商人「河村瑞賢」の言葉で締めましょう。

苦労をすればいいというものでもない。艱難辛苦が人を鍛えるというがそのような例はまれ。性格がねじまがって、他人を信用しなくなったりすることの方が多いものだ。

苦労を重ねてきた人は、おのれの体で覚えたことに引きずられる。料簡が狭くなりがちだ。ところが学問をすればいろいろな人の考え方や生き方を学ぶことができる

苦労を重ねて成功した人には、耳が痛い言葉です。

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